分子科学研究所

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凝縮系のダイナミクス:揺らぎ・緩和、不均一性

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[はじめに]
凝縮系では、熱揺らぎや外場による電子や振動状態の変化が、様々な時間・空間スケールでの構造変化や反応を誘起し、その結果として物性や機能が生み出されている。我々は、その物性や機能を生み出す反応や変化における分子論的機構や動的構造に興味を持ち、シミュレーションを利用した高次非線形分光法や多時間相関関数などの解析を通じて、凝縮系のダイナミクスの解明を進めている。

[溶液中の高速反応ダイナミクスに伴う振動励起と緩和]
レーザーの進展により、10 fs 程度のパルスを利用した時間分解分光が可能となり、溶液内や生体分子の反応および緩和ダイナミクスに関する様々な実験が進められている。我々は、生体分子など凝縮系の電子励起状態の電子・振動ダイナミクスの解明のための効率良い計算手法の開発、その応用解析を進めており、その一例として、溶液内の10-hydroxybenzo-[h]quinoline(10-HBQ)の励起状態プロトン移動にともなう構造変化・緩和ダイナミクスを解析した[1]。この分子は電子基底状態ではエノール型をとる。電子基底状態で平衡にある10-HBQを励起すると、約30 fsの時定数でプロトン移動が起こりケト型へと変化する(図1a)と同時に、分子振動の励起、周りの溶媒分子の配置・配向変化が引き起こされ、分子構造の変化により励起された振動エネルギーは分子内で緩和するとともに溶媒へと散逸する。分子振動の時間変化は、ポンププローブ分光法を用いた実験により調べられており、実験に対応するシクロヘキサン中の10-HBQの電子励起後の振動モードの時間変化の計算結果を図1bに示す。励起振動モードのキャラクタを解析するとともに、真空中での振動モードの時間変化(図1c)との比較から、振動モードによっては、溶液内での面外変角モードの抑制による緩和の長寿命化や溶媒の運動へのエネルギー緩和による短寿命化など、振動緩和における溶媒の影響も明らかになった。現在、この計算・解析手法の生体系への展開を進めている。

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図1 (a)計算による10-HBQの基底および電子励起状態のポテンシャルエネルギー面および反応座標に沿った状態分布の時間変化。黒は基底状態での分布、青、緑、橙、赤は電子励起後、10, 30, 50, 70 fs後の分布を表す。(b)シクロヘキサン中および(c) 真空中の10-HBQの電子励起に伴う励起された振動成分の強度の時間変化。

[水の分子間運動の揺らぎ]
前ページの例のように、溶液内の反応・緩和現象において、溶媒は様々な静的・動的影響を与える。溶媒の中でも、水は多くの熱力学的に特異な性質や速い緩和を示すなど非常に興味深い物質である。また上の例からも分かるように、分光法はダイナミクスを解析するための強力な武器である。我々は、系に電場を三度印加した後の分極を測定する三次非線形分光法(図2a)の第一原理的解析により、身近な液体、溶媒である水の分子間運動の揺らぎ・緩和ダイナミクスを調べてきた[2]
図2bに、待ち時間t2=0の水の分子間運動の二次元赤外スペクトルを示す。水の集団的回転運動の斜めに傾いた正負のピークが図の対角線上に見られる。細長く伸びているのは回転運動の不均一性によるものである。また、スペクトルの傾きは、時間t1 の回転運動と時間t3 の回転運動の相関を表している。待ち時間t2 を延ばすと、待ち時間の間の揺らぎにより時間t1 の回転運動の波数と時間t3 の回転運動の波数の相関が失われ、スペクトルが徐々に横向きになっていく(図2c)。解析の結果、300cm-1 以下に広がる分子間並進運動により水素結合が攪乱され、水の回転運動が初期に持っていた不均一性が100 fs程度と非常に速い時間スケールで失われていくことが分かった。このように、幅広いスペクトルの裏で繰り広げられているダイナミクス(スペクトル拡散)を二次元スペクトルの解析により解明することができる。二次元スペクトルは対角成分に加え、その非対角成分もダイナミクスの情報を提供する。水の二次元赤外スペクトルには、(ν1, ν3) = (~650 cm-1, ~150cm-1) に非対角ピークが見られる。しかも、その強度は時間とともに変化し、励起された回転運動が低い振動数のモードに緩和していることを示している。我々は、水のポンプ・プローブスペクトルおよび新規に開発したエネルギー緩和の解析手法を用いて分子間エネルギーの緩和過程を解析した。その結果、高波数の回転運動から低波数の回転運動および二種類の並進運動を経て、水素結合ネットワーク構造変化に至る高速でカスケード的なエネルギー緩和を明らかにした。分子間運動のエネルギー緩和の解析は実験・計算ともに困難であるが、このような水の回転・並進運動のカップリングにより、化学反応等で生じた余剰エネルギーの高速な緩和が起っていることを明らかにした。以上の速いダイナミクスの解析に加え、遅いダイナミクスの様相について高次非線形分光、統計力学の視点から解析を進めている。

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図2 (a)二次元赤外分光法において電場印加の概略図。(b)t2=0、(c)200 fsにおける水の分子間運動に対する理論二次元赤外スペクトル。回転運動は400 cm-1 以上の領域に、一方、並進運動は400 cm-1 以下の領域にみられる。

[過冷却液体の動的不均一性]
一般に、結晶化を避けて液体の温度を下げると過冷却状態になる。温度低下に伴い、過冷却状態の緩和時間は急激に遅くなり、最終的にはガラス状態になる。このような急激な運動の遅延化は様々な系でみられる普遍的現象であるが、その本質は解明されていない。しかし、近年の実験・シミュレーションによる研究から、過冷却液体において時間・空間的に不均一で協同的な運動が明らかになり、この動的不均一性が過冷却液体のダイナミクスの理解のカギと考えられている。通常、液体の構造やダイナミクスを解析するには、<α(0)α(x)>(α(x) は座標や時間に依存する量)で表される二点相関関数が用いられる。しかし、座標や時間に関する「平均」をとる二点相関関数では、時間・空間の不均一性を明らかにできない。不均一性の解明には、多点相関関数による解析が必要となる。近年、密度揺らぎの四点相関により動的不均一性の相関長の解析が行われているが、そのダイナミクスに関しては解析されていなかった。我々は、三時間相関関数を導入し、過冷却状態における不均一ダイナミクスの寿命などの解析を行った[3]
我々の解析により、不均一性の「程度」の可視化を可能とし、さらに、二次元赤外スペクトルと同様に待ち時間を変えることにより、動的不均一性の寿命を定量化できるようになった。また、動的不均一性の寿命の温度依存性を解析から、温度低下とともに、動的不均一性の寿命は密度の二点相関関数で決定されるα緩和時間よりも急激に遅くなることを明らかにした(図3)。このように、新しく導入した多時間相関関数に基づく解析により、通常の解析では捉えきれない隠れたダイナミクスを明らかにした。

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図3 モデル液体における不均一ダイナミクスの寿命とα緩和時間の比の温度変化。この系でのガラス転移温度は 0.265。

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図4 過冷却水における空間的密度揺らぎ。
濃い(薄い)青で示した領域は局所的密度の高い(低い)領域を表す。ここに見られる密度揺らぎは時間的にも揺らいでおり、その結果として、水の特異的熱力学的性質が生まれる。

[過冷却水における熱力学的性質の分子論的起源]
2に示した水のエネルギー緩和において、緩和の最終段階である水素結合の構造変化過程は温度低下にともない急激に遅くなる。このようなダイナミクスの遅延化に加え、過冷却水では熱力学的性質の特異性が増すことが知られている。そのような特異性の一つとして、等積比熱には見られない等圧比熱の特異的温度依存性がある。比熱がエネルギー揺らぎで表されることは大学でも習うが、特異的温度依存性を示すエネルギー揺らぎは、どのような分子論的運動に由来しているのであろうか?
静的揺らぎ(例えば、誘電率)は動的揺らぎ(例えば、時々刻々の分極揺らぎ)の結果であり、動的揺らぎの解析から、どのような運動がどの程度静的揺らぎに寄与しているかを知ることができる。我々は、複素比熱(比熱に関する複素感受率)を求め、等圧比熱、等積比熱に寄与する揺らぎの時間・空間スケールを解析し、これらの比熱の温度依存性の違いを明らかにした。さらに、比熱や圧縮率の温度変化と過冷却液体の水素結合のネットワーク構造との係わりなどについても明らかにした[4]

[今後の展開について]
近年の様々な実験により、生体分子を含め、電子励起状態の関わる詳細なダイナミクスが明らかにされるようになった。これらの系において、電子状態、振動状態がどのようにカップルし、反応や機能に繋がっているのかに興味が持たれる。
また、時間的・空間的不均一なダイナミクスの起源も非常に興味深い問題である。関連する問題として、最近の実験研究の進展により、生体分子の機能発現にコンフォメーションの多様性の関与・重要性も見出されており、これらは物理化学に留まらない重要な問題である。
実験データ、統計力学や分光法のアイディアを利用した理論・計算科学研究を通して、速く局所的な運動から熱力学的性質や機能にいたる不均一で階層的な構造変化ダイナミクスを明らかにしていきたい。

■参考文献
[1] M. Higashi and S. Saito, J. Phys. Chem. Lett. 2, 2366-2371 (2011).
[2] T. Yagasaki and S. Saito, Acc. Chem. Res. 42, 1250-1258 (2009), Annu. Rev. Phys. Chem. (submited) など.
[3] K. Kim and S. Saito, Phys. Rev. E 79, 060501(R) (4 pages) (2009), J. Chem. Phys. 133, 044511 (10 pages) (2010) など.
[4] S. Saito, I. Ohmine, and B. Bagchi, submitted (2012).